新聞によれば、また往年のスポーツ選手がすい臓がんで逝った。
巨人の内野手としてV9に貢献した土井正三さんが9月25日午後0時24分、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去された。67歳だった。
土井さんは07年2月に膵臓がんと告知され、医師からは「余命4か月」と宣告されたという。
3月5日、都内の病院で15時間にも及ぶ手術を受けたという。
9月24日は比較的意識がはっきりしていたが、この日、午前11時半ごろ意識がなくなり、そのまま亡くなられた。(スポーツ報知より)
告知から2年7ヶ月、どんな闘病生活を送られたのだろうか。長時間の手術で余命が延びたのかも知れないが、すい臓周辺の臓器をかなり切除したのではなかろうか。
すい臓がんで逝った妻は手術の道を取らなかった。どちらがよかったのか未だに分からない。
土井さんのご冥福を祈る。
千の風になって
7月15日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング
16日の朝食後、ホテルの裏山にある「創造の森 彫刻公園」へ。
カラ松林の自然散策路の中に何カ所かの展望台や50体の彫刻が展示されている。
標高1300mのホテルから、ホテルの四駆に乗せてもらい30分一気に100mを登る。帰りはジグザグ、時に車椅子を逆向きにして下りる。
展望台「望郷の丘」からは午前中だったこと、快晴に恵まれ、遠く槍・穂高の北アルプス連峰がくっきり。直線距離にして75kmほどか。
(撮影:Y氏)
展望台「望峰の丘」からは富士山を望む。
(撮影:Y氏)
カラ松林の平らなところで、早くして他界したヤロー会の仲間3人と私の妻を偲び全員で「千の風になって」を歌う。 (撮影:Y氏) 「創造の森 彫刻公園」を下ると「富士見高原ゆりの里」に入る。冬季はスキー場になる。500万輪の色とりどりのゆりが斜面を利用して咲き乱れていた。
丁度、夏の風が林を一杯に通り抜ける。
みんな風と一緒になったのだろう。
あまり多いのもきれいさを通り越して怖い感じがする。
バリアーフリー
7月15日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング
富士見駅の改札口は車椅子で通れない。脇の鍵のかかった鉄柵を開錠してもらって外へ。あまり車椅子利用者は駅を使わないようで鉄柵の前には花々のプランターが置いてあった。
隣のホームへの移動は
ホームの隅まで行き、スロープを下りて線路を渡り隣のホームの隅からホームへ。エスカルやチェアーメートより簡単で安全だ。
駅前の公衆トイレには多目的トイレがあった。利用した。
入笠山のトレッキングコースでは入笠湿原にトイレがあったが、急な階段を下りなければならず車椅子は無理。
マナスル山荘の前にも公衆トイレがあり、多目的トイレがあった。広い室内だ。
マナスル山荘前のバス停、運行は季節限定か?
宿泊した「八峯苑 鹿の湯」は昨年リニューアルしたばかり。
バリアーフリーを取り入れてある。
受付に低いカウンター、多目的トイレは車椅子が余裕をもって回転できる広いスペース。
残念だったのは、大浴場の浴室に固定式の椅子はあるが、キャスター付きのシャワー椅子が備えられていなかったこと。入浴は断念。
7月15日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキングをしてきた。
学生時代の山岳部同期の仲間(ヤロー会と称す)と奥様方総員10人で。
私が車椅子の体になってから、車椅子で山中トレッキングをと「コバショウと山へ登る会」をN君ご夫妻が中心となり数年に一回企画してくれた。N君ご夫妻は実踏までしてくれて車椅子でトレッキング可能かどうか考えてくれた。
感謝、感謝だ
スタートは1996年9月、大町のH君の別荘に集まった。
二回目は水上温泉からマチガ沢・天神平
三回目は2003年7月に草津温泉・草津白根
四回目は2005年5月に那須温泉・茶臼岳
五回目は2007年春箱根、妻の体調悪く不参加
そして今回は六回目。
毎回亡き妻の運転で参加した。山登りの好きな妻はうきうきと楽しんで参加していた。
今回も一緒に参加してくれたことだろう。
JR富士見駅は955mで中央本線の最高位。
東に入笠山から南アルプス連峰、西に八ヶ岳連峰を望む
昼食を富士見パノラマリゾートですませ、皆はゴンドラで山彦山荘へ、私はヘルパーとタクシーで。
マナスル山荘で入笠山山頂組と分かれ、N夫人と私とヘルパーの三人は約4kmのやや平坦な舗装された道を大阿原湿原まで、標高1800mか。
下りは駐車していた個人の車に乗せてもらう。
宿泊は「八峯苑 鹿の湯」。
二日目は1300mの宿から100mを一気に四輪駆動車で上り展望を楽しむ。
下りながら「創造の森」や「ゆりの里」を散策。
三年振りの一泊旅行、介助はすべてヘルパーに頼むという旅だったが、仲間みんなのサポートを受け天候にも恵まれ楽しく過ごした二日間だった。
八ヶ岳連峰
甲斐駒・北岳
いつも妻も同行して山菜取りや山登りを一緒したグループ(竹村グループ)の日帰り行田市内散策が今年も行われた。
朝7時出発には5時起床。妻がいない現在の身は前の夜からヘルパーに泊まりで入ってもらい、外出のヘルパーと交替。
古代蓮の公園は昨年も訪れた。今年は盛りを過ぎており開花している花は少なかった。いつ見てもピンクの大きな蓮は見映えがする。
昼食は「足袋御殿」を利用した料亭「彩々亭」で。
足袋の生産で一代で財を成した荒井八郎氏の邸宅。
和洋折衷造りで、洋館は来賓用だった。洋館の一室で同行8人がビールで乾杯。
玄関から板張りの廊下を車椅子で移動。ところどころ段差はあるが前輪を上げれば越えられた。
庭の作りも凝ったもののようだ。車椅子では残念ながら行けなかった。
昭和21年、戦後復興視察のため昭和天皇が各地を行幸された折、この御殿に隣接していた足袋工場にも立ち寄られた。今は中古車センターになっている。
食後は忍城城址へ。
和田竜作「のぼうの城」で一躍有名になったところ、石田三成の水攻めにも耐えた浮き城。城址は水城公園になっており、池にはへら鮒釣りの太公望が多くいた。
少し離れたところに行田市が昭和63年に新築した忍城と博物館。見るところはあまりなかった。
市内には県立古墳博物館もある。
市の博物館では「さきたま古墳群」についての展示解説がなかった。縦割り行政の悪しきところか。
浮き城といえば、高校の校歌の一節に「構えは八文字浮島のーーー」とある。越後長岡牧野藩の長岡城も平城だった。
梅雨空の湿気の多い一日。外出できることは元気な証。仲間の顔を見るのも元気な証。
妻も喜んでくれただろう。
古代蓮の池
評論をはじめ幅広い執筆活動で知られ、推理小説やSFの作家として栗本薫の名前でも活躍した評論家の中島梓(なかじま・あずさ、本名今岡純代=いまおか・すみよ)さんが5月26日午後7時18分、膵臓がんのため東京都品川区の病院で死去された。56歳。東京都出身。
今の世では若い死であろう。栗本薫、中島梓の2つの名前を使い分け、テレビのクイズ番組にレギュラー出演し、ミュージカルの脚本、演出も手がけるなど、多彩な才能を発揮された。
2007年末に膵臓がんの手術を受け、自宅療養を続けていた。病床でも執筆を続け、08年夏には闘病記「ガン病棟のピーターラビット」を刊行した。(47ニュースより)
今日、市の図書館に行ってこの本(ポプラ社)を借りてきた。これから暫く読み続けよう。中島さんは発病から約1.5年で旅立たれた。 妻も発病し診断を受けてから、ほぼその位の期間で他界した。すい臓がんはやっかいな病気だ。
写真は47ニュースより
すい臓がんで妻が旅立って一年が経った。この一年は長いようでもあり何かと雑事にまぎれ短いようでもあった。
今日は娘たちが新潟県のお墓に参ってくれた。私は家で妻を供養した。本宮三香の「哀悼の詞」を吟じ、短歌「亡き人をー ― ―」を朗詠した。
これからの日々も同行二人で過ごしていく。
「哀悼の詞」本宮三香
百歳の人生 竟(つい)に全(まった)からず
哀しむ君が客と為(な)りて黄泉に到るを
墓前涙を呑んで冥福を祈る
腸(はらわた)は断ず 薫香一片の煙
短歌
亡き人を終(つい)の別れと弔えど
心は消えずありし面影
妻が生前一緒に野や山に行ったグループ(仮称:竹村グループ)の忘年会。
いつもなら志木の中華店でやるのだが、今年は車椅子の我が身を案じ、地元立川のの中華街で開いてくれた。皆さん遠方から集う。藤沢、印西、松戸、川口、志木から。
このグループと妻は春の梅見、わらび・蕗の薹などの山菜取り、秋のキノコ取り、山登りなど四季折々連れて行ってもらった。私を車に乗せて。
今年の忘年会は中華料理コースに紹興酒。3年もの・5年もの・8年ものの紹興酒各100mlで880円の飲み比べはヒット商品といえよう。少しは年数の差が分かる。1年間のグループの活動、来年の話、近況報告を肴に数時間を過ごす。
きっと妻も同席していただろう。
妻はすい臓がんで3月28日に他界した。昨年の1月下旬に体調がおかしくなり治療をしていた。8月から10月かけては一時回復し新潟県の実家や菅平高原にキノコ取りに行くほどだった。
どうもすい臓がんという病気はそういうものらしい。
と思うのも4月7日に71才で亡くなられた味の素会長の江頭邦雄氏のケースが似ていたから。
氏は2007年の4月頃に体調不良となり、10月から12月にかけて講演会やゴルフをこなすほどに体調が回復されていたとのこと。
癌細胞が見つかってから約半年後には、ある程度の治療を続けていると一時的に気力体力が回復するのだろうか。
まわりの家族が一安心できる期間かも知れない。
ドワーフセンセーション・ホワイト
7月28日は妻の祥月命日だった。
いつでもいいから来てくれないかなと思っている。
ところが翌日29日の早朝おかしな現象に会った。朝4時頃左手を額に乗せて寝込んでいた。何かが軽く両手を引っ張るような感じ。
ああ妻が挨拶に来てくれたと感じた。
寝ぼけた上での感じと言われればそれまでだが、そうとはとりたくない。
今日から田舎では花火大会。妻が元気だった時は毎年二人で車で見に行った。今年は妻はどこで見ているやら。
2008年3月28日、68歳で他界した妻はすい臓がんだった。昨年1月に胸の痛みを訴え、急遽入院し精密検査をした。何らかの理由で胆管が圧迫され胆汁が流れず閉鎖性黄疸と判明。
ドレーン挿入はものすごい痛さだったようだ。約2ヶ月半後の3月13日に胆管にステント挿入が成功し本人はもとより家族みんながよろこんだ。
更に精密検査をした結果すい臓がんと判明。医師の告知後、妻は手術を選ばず化学療法と代替医療とで頑張ると決め、3月31日に退院した。
その後、体調が悪いときは短期間入院したが、ほとんど自宅で療養を続けていた。二人の娘たちや小学4年の孫(サッカー少年)に毎日見舞ってもらい看病を受けていた。
2008年の2月からは在宅緩和ケアーの医師のお世話になり、週数回は介護保険制度を利用し身の回りをヘルプしてもらった。3月に入り食欲もなく、眠る時間が長くなる。何を考え、夢を見ていたのだろうか。
最近、新聞にすい臓がんによる三人の著名人の死亡記事があった。ひとりはもうひとりは元プロ野球大洋(現横浜)投手の森中千香良、4月14日すい臓がんのため死去、68歳。
旧第一勧業銀行の頭取として旧富士銀行・旧日本興業銀行との3統合を実現、みずほフィナンシャルグループ誕生に尽力した杉田力之、すい臓がんのため3月30日死去、65歳。
更に味の素会長の江頭邦雄、膵臓癌のため東京都文京区の病院で7日死去、70歳。
妻も著名なお三人も60歳、70歳代と若く、これからの人生を楽しみにしていたことであろう。お三人はどんな療養生活を送られたのであろうか。
足利の藤
5月5日に妻の四十九日法要と納骨をした。
東京から新潟県の菩提寺に日帰りで。娘達は貴重な荷物が沢山あるので遅刻しては行けないので途中で一泊し、お寺で落ち合った。連休の後半だったので関越高速道路の下りは4時間しかかからなかった。しかし、上りは大渋滞に巻き込まれ約8時間もかかった。
参列者は私、娘二人、娘の夫と息子、妻の長兄の6人。
四十九日法要は本堂でご住職と当院様お二人の読経でしめやかに行われた。お経を聞きながら仏前の蝋燭の炎の揺れを眺め、妻が来ているのかなと思ったりした。
その後、納骨式を墓前で行った。読経の最中、数本の蝋燭の炎が風に揺れ消えるかと思うとまた勢いが良くなり、妻が何か話しているようにも見えた。
家に持ち帰るお骨(喉仏と歯)と生前療養中にお世話になったステント(黒く焼けてはいたが)を別にし、残りはお墓に納めた。
妻の長兄は広げられたお骨を大きな手でなでて愛情一杯の最後の別れをされた。
納骨は終わったが、妻は肉親の近くにいつもいるのではなかろうか。
これからも妻を思い出しながら日々を送っていこうと思っている。
2008年3月28日長年連れ添ってくれた妻が息を引き取りました。
初めての投稿として喪主挨拶を(2008/3/31午後1時)
本日はお忙しいところ、雨の中、遠路からも皆様方には妻昭子のためにわざわざご会葬いただきまして誠にありがとうございました。
妻は享年68歳、もっと生きてほしいものでした。誠に残念です。
わがままな私を40数年間の長い間良くサポートしてくれました。感謝しています。
生前、これからは山歩き・ダンス・旅行など多趣味を生かして老後を送りたいと常々申しておりましたが、それもかなわず誠に残念です。
昨年1月から末期癌の闘病生活を送っておりました。その間先生方、二人の娘たちや孫、皆様方の懸命な看護により在宅で安らかに息を引き取ることができました。
これまで昭子は妻として母として本当に良くやってくれました。
これからは残された私たち一同妻昭子を供養しながら日々送って参ります。
どうぞこれからも変わらぬお付き合いの程よろしくお願いいたします。どうも本日はありがとうございました。
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