妻のこと

2009年10月 4日 (日)

小学校最後の運動会

孫のユッ君にとって小学校生活最後の運動会があったので、ヘルパーと昼休みから見物。
前日の予定が雨で流れ、今日は暑いくらいの秋晴れで子供達は元気一杯。


ユッ君は100m走を良く走った。紅白チーム対抗リレーの白組のアンカー。二位でバトンを受け取り一着でゴールイン。日頃サッカーで動き回っている成果がでたか。


妻もどこかで眺めて大喜びだろう。
ユッ君の成長には妻が良く尽くしてくれた。
二才から保育園への送り迎え、小学生の時は学童保育に迎えに行った。
これからも孫の成長を見守っていてくれるだろう。

Kif_0671
来年就学の子供たちも参加

Kif_0680

紅白チーム対抗のゴール

2009年9月27日 (日)

すい臓がんで逝った人

新聞によれば、また往年のスポーツ選手がすい臓がんで逝った。


巨人の内野手としてV9に貢献した土井正三さんが9月25日午後0時24分、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去された。67歳だった。


土井さんは07年2月に膵臓がんと告知され、医師からは「余命4か月」と宣告されたという。
3月5日、都内の病院で15時間にも及ぶ手術を受けたという。
9月24日は比較的意識がはっきりしていたが、この日、午前11時半ごろ意識がなくなり、そのまま亡くなられた。(スポーツ報知より)


告知から2年7ヶ月、どんな闘病生活を送られたのだろうか。長時間の手術で余命が延びたのかも知れないが、すい臓周辺の臓器をかなり切除したのではなかろうか。


すい臓がんで逝った妻は手術の道を取らなかった。どちらがよかったのか未だに分からない。
土井さんのご冥福を祈る。

Dscf00212003
在りし日の妻と2003年

2009年7月28日 (火)

入笠山と富士見高原(6おしまい)

入笠山と富士見高原(6おしまい)

書き残したことなど

715日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング


15日に入笠湿原から大阿原湿原まで約4kmをN夫人と私とヘルパーの三人でのんびりトレッキング。
道は舗装され、幅も広い。
しかし、結構起伏が多く登りは首が後に行き痛くなるほど。

緑の中に「またたび」の木。葉の色が白やピンク、この色で昆虫を呼び寄せるらしい。

Matatabi
Photo

「こなし」の並木があった。花は終わって、良く見ると直径数ミリの緑の実が下がっている。可憐な実だ。
涼しい風に吹かれての車椅子トレッキングだった。


高原の花々(その2)
Y氏撮影
036sawagiku
サワギク
049yabujirami
ヤブジラミ
055mijutidori
ミズチドリ
076noriutugi
ノリウツギ
094mushitorinadeshiko
ムシトリナデシコ

2009年7月26日 (日)

入笠山と富士見高原(5)

高原の花々

715日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング


スズランは終わっていたが、ところどころに可憐な花々が目を楽しませてくれた。


同行のY氏撮影による花々、花の名前はN氏が教えてくれた。ネーミングには色々由来があり、聞くと納得できる。

123
ノアザミ

110
カラマツソウ

107
キキョウ

075 
ホタルブクロ

071
111
ニッコウキスゲ

070
ギボウシ

066
シモツケ

065
オカトラノオ

054
サギスゲ

050
レンゲツツジ

040
ハクサンフウロ

030
キバナノヤマオダマキ

023
ノカンゾウ

019
025
クリンソウ 二様

016
キリンソウ

009
ウツボグサ

010
ヨツバヒヨドリ

011
クガイソウ

ノハナショウブ三様

015
060
061

2009年7月25日 (土)

入笠山と富士見高原(4)

千の風になって

715日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング


16日の朝食後、ホテルの裏山にある「創造の森 彫刻公園」へ。
カラ松林の自然散策路の中に何カ所かの展望台や50体の彫刻が展示されている。


標高1300mのホテルから、ホテルの四駆に乗せてもらい30分一気に100mを登る。帰りはジグザグ、時に車椅子を逆向きにして下りる。


展望台「望郷の丘」からは午前中だったこと、快晴に恵まれ、遠く槍・穂高の北アルプス連峰がくっきり。直線距離にして75kmほどか。

Photo

(撮影:Y氏)

展望台「望峰の丘」からは富士山を望む。

125

(撮影:Y氏)

カラ松林の平らなところで、早くして他界したヤロー会の仲間3人と私の妻を偲び全員で「千の風になって」を歌う。
丁度、夏の風が林を一杯に通り抜ける。
みんな風と一緒になったのだろう。

120
121

(撮影:Y氏)

「創造の森 彫刻公園」を下ると「富士見高原ゆりの里」に入る。冬季はスキー場になる。500万輪の色とりどりのゆりが斜面を利用して咲き乱れていた。
あまり多いのもきれいさを通り越して怖い感じがする。

Kif_0456

Kif_0458

Kif_0459

2009年7月22日 (水)

入笠山と富士見高原(3)

バリアーフリー

715日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング

富士見駅の改札口は車椅子で通れない。脇の鍵のかかった鉄柵を開錠してもらって外へ。あまり車椅子利用者は駅を使わないようで鉄柵の前には花々のプランターが置いてあった。
隣のホームへの移動は
ホームの隅まで行き、スロープを下りて線路を渡り隣のホームの隅からホームへ。エスカルやチェアーメートより簡単で安全だ。
駅前の公衆トイレには多目的トイレがあった。利用した。


入笠山のトレッキングコースでは入笠湿原にトイレがあったが、急な階段を下りなければならず車椅子は無理。
マナスル山荘の前にも公衆トイレがあり、多目的トイレがあった。広い室内だ。

Kif_0441

マナスル山荘前のバス停、運行は季節限定か?

宿泊した「八峯苑 鹿の湯」は昨年リニューアルしたばかり。
バリアーフリーを取り入れてある。
受付に低いカウンター、多目的トイレは車椅子が余裕をもって回転できる広いスペース。
残念だったのは、大浴場の浴室に固定式の椅子はあるが、キャスター付きのシャワー椅子が備えられていなかったこと。入浴は断念。


2009年7月21日 (火)

入笠山と富士見高原(2)

富士見パノラマリゾート
715日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキング


昼食を摂った富士見パノラマリゾートは冬はスキー、夏はハングライダーやマウンテンバイクのコースになっている。


マウンテンバイクの傷害保険の看板には笑えないところがある。

Kif_0437

Kif_0438

2009年7月20日 (月)

入笠山と富士見高原(1)

715日と16日入笠山・富士見高原に車椅子トレッキングをしてきた。


学生時代の山岳部同期の仲間(ヤロー会と称す)と奥様方総員10人で。
私が車椅子の体になってから、車椅子で山中トレッキングをと「コバショウと山へ登る会」をN君ご夫妻が中心となり数年に一回企画してくれた。N君ご夫妻は実踏までしてくれて車椅子でトレッキング可能かどうか考えてくれた。
感謝、感謝だ


スタートは19969月、大町のH君の別荘に集まった。
二回目は水上温泉からマチガ沢・天神平
三回目は2003年7月に草津温泉・草津白根
四回目は2005年5月に那須温泉・茶臼岳
五回目は2007年春箱根、妻の体調悪く不参加
そして今回は六回目。


毎回亡き妻の運転で参加した。山登りの好きな妻はうきうきと楽しんで参加していた。
今回も一緒に参加してくれたことだろう。

JR富士見駅は955mで中央本線の最高位。
東に入笠山から南アルプス連峰、西に八ヶ岳連峰を望む

Kif_0449

昼食を富士見パノラマリゾートですませ、皆はゴンドラで山彦山荘へ、私はヘルパーとタクシーで。
マナスル山荘で入笠山山頂組と分かれ、N夫人と私とヘルパーの三人は約4kmのやや平坦な舗装された道を大阿原湿原まで、標高1800mか。
下りは駐車していた個人の車に乗せてもらう。
宿泊は「八峯苑 鹿の湯」。

二日目は1300mの宿から100mを一気に四輪駆動車で上り展望を楽しむ。
下りながら「創造の森」や「ゆりの里」を散策。


三年振りの一泊旅行、介助はすべてヘルパーに頼むという旅だったが、仲間みんなのサポートを受け天候にも恵まれ楽しく過ごした二日間だった。

Kif_0435

八ヶ岳連峰

Kif_0450

甲斐駒・北岳

2009年7月 9日 (木)

古代蓮と足袋御殿と忍城

いつも妻も同行して山菜取りや山登りを一緒したグループ(竹村グループ)の日帰り行田市内散策が今年も行われた。


7時出発には5時起床。妻がいない現在の身は前の夜からヘルパーに泊まりで入ってもらい、外出のヘルパーと交替。


古代蓮の公園は昨年も訪れた。今年は盛りを過ぎており開花している花は少なかった。いつ見てもピンクの大きな蓮は見映えがする。


昼食は「足袋御殿」を利用した料亭「彩々亭」で。
足袋の生産で一代で財を成した荒井八郎氏の邸宅。
和洋折衷造りで、洋館は来賓用だった。洋館の一室で同行8人がビールで乾杯。
玄関から板張りの廊下を車椅子で移動。ところどころ段差はあるが前輪を上げれば越えられた。
庭の作りも凝ったもののようだ。車椅子では残念ながら行けなかった。

昭和21年、戦後復興視察のため昭和天皇が各地を行幸された折、この御殿に隣接していた足袋工場にも立ち寄られた。今は中古車センターになっている。


食後は忍城城址へ。
和田竜作「のぼうの城」で一躍有名になったところ、石田三成の水攻めにも耐えた浮き城。
城址は水城公園になっており、池にはへら鮒釣りの太公望が多くいた。


少し離れたところに行田市が昭和63年に新築した忍城と博物館。見るところはあまりなかった。
市内には県立古墳博物館もある。
市の博物館では「さきたま古墳群」についての展示解説がなかった。縦割り行政の悪しきところか。

浮き城といえば、高校の校歌の一節に「構えは八文字浮島のーーー」とある。越後長岡牧野藩の長岡城も平城だった。
梅雨空の湿気の多い一日。外出できることは元気な証。仲間の顔を見るのも元気な証。
妻も喜んでくれただろう。

Kif_0400

古代蓮の池

Kif_0404
新築された忍城

Kif_0405
鐘楼

2009年6月20日 (土)

すい臓がんで逝った人

評論をはじめ幅広い執筆活動で知られ、推理小説やSFの作家として栗本薫の名前でも活躍した評論家の中島梓(なかじま・あずさ、本名今岡純代=いまおか・すみよ)さんが5月26日午後7時18分、膵臓がんのため東京都品川区の病院で死去された。56歳。東京都出身。

今の世では若い死であろう。栗本薫、中島梓の2つの名前を使い分け、テレビのクイズ番組にレギュラー出演し、ミュージカルの脚本、演出も手がけるなど、多彩な才能を発揮された。

2007年末に膵臓がんの手術を受け、自宅療養を続けていた。病床でも執筆を続け、08年夏には闘病記「ガン病棟のピーターラビット」を刊行した。(47ニュースより)

今日、市の図書館に行ってこの本(ポプラ社)を借りてきた。これから暫く読み続けよう。中島さんは発病から約1.5年で旅立たれた。 妻も発病し診断を受けてから、ほぼその位の期間で他界した。すい臓がんはやっかいな病気だ。

Pn2009052701000401ci00031

写真は47ニュースより

2009年6月19日 (金)

今年の墨田の花火

梅雨の晴れ間に、今年もあじさい「墨田の花火」がいい色合いできれいに咲いている。
妻が生前どこかから枝をもらってきて挿し木をしたもの。

庭の金網にクレマチスも大きな花を開いた。

Kif_0378

Kif_0379

Kif_0381

2009年6月13日 (土)

野良猫上がりの花ちゃん

妻の存命中から野良猫が顔を見せるようになり、妻が餌付けをした。名前も「花ちゃん」と付ける。


今も毎日訪れ、夜も一泊するほどに馴れてきた。餌を食べに来ては満腹すると外に出してと要求の泣き声。


外に置いた洗濯物入れのバスケットに丸く寝ていることも度々。室内からガラス越しに寝姿を写した。

Kif_03222

2009年3月28日 (土)

妻の一周忌

すい臓がんで妻が旅立って一年が経った。この一年は長いようでもあり何かと雑事にまぎれ短いようでもあった。


今日は娘たちが新潟県のお墓に参ってくれた。私は家で妻を供養した。本宮三香の「哀悼の詞」を吟じ、短歌「亡き人をー ― ―」を朗詠した。
これからの日々も同行二人で過ごしていく。


「哀悼の詞」本宮三香
百歳の人生  (つい)に全(まった)からず
哀しむ君が客と為()りて黄泉に到るを
墓前涙を呑んで冥福を祈る
(はらわた)は断ず  薫香一片の煙


短歌
亡き人を終(つい)の別れと弔えど
       
心は消えずありし面影

2009年3月21日 (土)

白い花が好きだった人

暖かい日が続く
春に咲く花は白い花が多い
白い花を探しに近くの公園に行ってきた
妻が逝ってもうじき一年になる
妻は着るものも花も白色が好きだった
春の花々をどこかから見ていることだろう

Kif_0180
こぶし















Kif_0182 こぶしと雪柳








Kif_0185 水仙








Shidekobushi 雪柳としでこぶし

 

2009年2月14日 (土)

満開の白梅

今年も庭の白梅が満開だ。
今から6年前、奥多摩の吉野梅郷に妻と梅見に行った時一本買ってきたもの。
孫が小学校1年になるのを記念して植えた。
その孫もこの春からは6年生。
妻が見守っていてくれるだろう。

Photo Photo_2

2008年12月26日 (金)

妻も忘年会に?

妻が生前一緒に野や山に行ったグループ(仮称:竹村グループ)の忘年会。

いつもなら志木の中華店でやるのだが、今年は車椅子の我が身を案じ、地元立川のの中華街で開いてくれた。皆さん遠方から集う。藤沢、印西、松戸、川口、志木から。

このグループと妻は春の梅見、わらび・蕗の薹などの山菜取り、秋のキノコ取り、山登りなど四季折々連れて行ってもらった。私を車に乗せて。

今年の忘年会は中華料理コースに紹興酒。3年もの・5年もの・8年ものの紹興酒各100ml880円の飲み比べはヒット商品といえよう。少しは年数の差が分かる。1年間のグループの活動、来年の話、近況報告を肴に数時間を過ごす。
きっと妻も同席していただろう。

Img_2947sr

2008年10月29日 (水)

すい臓がん

妻はすい臓がんで3月28日に他界した。昨年の1月下旬に体調がおかしくなり治療をしていた。8月から10月かけては一時回復し新潟県の実家や菅平高原にキノコ取りに行くほどだった。

どうもすい臓がんという病気はそういうものらしい。
と思うのも4月7日に71才で亡くなられた
味の素会長の江頭邦雄氏のケースが似ていたから。
氏は2007年の4月頃に体調不良となり、10月から12月にかけて講演会やゴルフをこなすほどに体調が回復されていたとのこと。
癌細胞が見つかってから約半年後には、ある程度の治療を続けていると一時的に気力体力が回復するのだろうか。
まわりの家族が一安心できる期間かも知れない。

Photo_2 コスモス

ドワーフセンセーション・ホワイト

2008年10月28日 (火)

オンシジュウムと柿

妻の月命日が巡ってきた。
妻の実家のお兄さんが新潟県にあるお墓に花を供えお参りして下さった。感謝するのみ。

081028

26日の日曜に奇しくも妻の好きだったものが二つ送られてきた。
一つは私のヘルパーが手作りのオンシジュウムの花を持ってきてくれた。生前、妻が好きだった花のようだ。私は知らなかったが。鉢植えの黄色な花。
もう一つは小千谷市に住む妻の甥夫妻から宅配で柿が届いた。焼酎漬けの柿が沢山。
妻はバカがつくほど柿好きで、この季節になると甥夫妻からの柿を心待ちにし、食べきるとスーパーから買って来ていた。
さっそく二つとも供えさせてもらった。

Flowwr5210large 

2008年10月 5日 (日)

幸小の運動会

5年生の孫の運動会。去年は春だったが今年は秋の開催。
去年の運動会には妻も見物していた。去年の3月31日に退院し、体調に気をつけてマスクをしていた。

孫のユッ君は今年もプログラム最終の学年対抗リレーの選手に選ばれ、赤、白、黄、青の4チーム対抗で走った。赤チームで1位でバトンを受け6年生のアンカーも1位でゴールイン。秋の天気は一日もってくれた。

妻も喜んで応援していたと思う。

1 応援合戦

2 学年対抗リレー

緊張のユッ君

2008年9月27日 (土)

コルチカム・ザ・ジャイアント

Photo 今年も庭にコルチカム・ザ・ジャイアントが可憐な花を咲かせてくれた。
2005年10月中旬、妻と一緒にT君他数人の仲間と菅平高原にキノコ取りに行った時、地元の人からいただいた数株の花々。

高原では桃色が強かったが平地では淡い色。
数本の茎の間からぼーうっと妻昭子が現れてくれればなあ



2

2008年8月14日 (木)

新盆

妻の新盆は東京では7月に、お墓のある新潟の方で

8月に迎えた。
東京の方では妻の知人から盆ちょうちんや薄墨桜と

いうお線香が送られてきた。桜の咲き始めたころに

亡くなったので、桜にちなみ薄墨桜を送ってくださ

った。


田舎のお墓は遠方のためお参りできなかったが、

地元に住む妻の長兄がお参りして下さった。お花を

供えてくださった。
長兄の花の他にも、どなたかが供えてくださった

花々が飾られていたとか。
皆様のお心遣いにありがたく感謝するのみ。

2_2 Photo_2

2008年8月 9日 (土)

誕生日

30st08116_2 

昭和14年生まれの妻の誕生日。生きていれば69歳か。長崎原爆投下の日と同じで
思い出しやすい。今年からはそれに加え北京五輪開幕の翌日としよう。これからも同行二
人で生きていこう。

2008年8月 2日 (土)

妻が来たのかな?

7月28日は妻の祥月命日だった。
いつでもいいから来てくれないかなと思っている。

ところが翌日29日の早朝おかしな現象に会った。朝4時頃左手を額に乗せて寝込んでいた。何かが軽く両手を引っ張るような感じ。
ああ妻が挨拶に来てくれたと感じた。

寝ぼけた上での感じと言われればそれまでだが、そうとはとりたくない。
今日から田舎では花火大会。妻が元気だった時は毎年二人で車で見に行った。今年は妻はどこで見ているやら。

2008年6月25日 (水)

恩師H先生からの花束

先頃亡き妻の小学5年・6年時の恩師H先生から体の具合はいかがかとのお手紙をいただいた。H先生は80歳になられようか。私も4年生の時に担任だった。女の先生で当時20歳位であっただろうか。いつも乱暴な言動をして学校に残されたことを思い出す。

お手紙の返事が書きにくかったが昨年1月からの妻の病状、経過をしたため、生前のご厚情に感謝し返信した。いってみれば夫婦共通の恩師であった。

その後、白薔薇、白百合のすばらしい花束が送られてきた。早速妻に報告し供えた。

喜んでいることだろう。

Photo

2008年6月 7日 (土)

あじさい「墨田の花火」

庭の一隅にあじさい「墨田の花火」が咲き始めた。このあじさいは亡き妻が数年前にどこかから茎を貰ってきて挿し木をしたもの。

昨年までは茎も短く、花も咲かなかった。今年になって一杯花を開いた。妻に見せたかった。どこかで「きれいに咲いたね」と眺めているだろう。

Photo_2 

2008年5月12日 (月)

妻のすい臓がん

2008年3月28日、68歳で他界した妻はすい臓がんだった。昨年1月に胸の痛みを訴え、急遽入院し精密検査をした。何らかの理由で胆管が圧迫され胆汁が流れず閉鎖性黄疸と判明。

ドレーン挿入はものすごい痛さだったようだ。約2ヶ月半後の3月13日に胆管にステント挿入が成功し本人はもとより家族みんながよろこんだ。

更に精密検査をした結果すい臓がんと判明。医師の告知後、妻は手術を選ばず化学療法と代替医療とで頑張ると決め、3月31日に退院した。

その後、体調が悪いときは短期間入院したが、ほとんど自宅で療養を続けていた。二人の娘たちや小学4年の孫(サッカー少年)に毎日見舞ってもらい看病を受けていた。

2008年の2月からは在宅緩和ケアーの医師のお世話になり、週数回は介護保険制度を利用し身の回りをヘルプしてもらった。3月に入り食欲もなく、眠る時間が長くなる。何を考え、夢を見ていたのだろうか。

最近、新聞にすい臓がんによる三人の著名人の死亡記事があった。ひとりはもうひとりは元プロ野球大洋(現横浜)投手の森中千香良、4月14日すい臓がんのため死去、68歳。

旧第一勧業銀行の頭取として旧富士銀行・旧日本興業銀行との3統合を実現、みずほフィナンシャルグループ誕生に尽力した杉田力之、すい臓がんのため3月30日死去、65歳。

更に味の素会長の江頭邦雄、膵臓癌のため東京都文京区の病院で7日死去、70歳。

妻も著名なお三人も60歳、70歳代と若く、これからの人生を楽しみにしていたことであろう。お三人はどんな療養生活を送られたのであろうか。

Photo 2002年4月

足利の藤

2008年5月 7日 (水)

四十九日法要と納骨

5月5日に妻の四十九日法要と納骨をした。

東京から新潟県の菩提寺に日帰りで。娘達は貴重な荷物が沢山あるので遅刻しては行けないので途中で一泊し、お寺で落ち合った。連休の後半だったので関越高速道路の下りは4時間しかかからなかった。しかし、上りは大渋滞に巻き込まれ約8時間もかかった。

参列者は私、娘二人、娘の夫と息子、妻の長兄の6人。

四十九日法要は本堂でご住職と当院様お二人の読経でしめやかに行われた。お経を聞きながら仏前の蝋燭の炎の揺れを眺め、妻が来ているのかなと思ったりした。

1

その後、納骨式を墓前で行った。読経の最中、数本の蝋燭の炎が風に揺れ消えるかと思うとまた勢いが良くなり、妻が何か話しているようにも見えた。

家に持ち帰るお骨(喉仏と歯)と生前療養中にお世話になったステント(黒く焼けてはいたが)を別にし、残りはお墓に納めた。

妻の長兄は広げられたお骨を大きな手でなでて愛情一杯の最後の別れをされた。

納骨は終わったが、妻は肉親の近くにいつもいるのではなかろうか。

これからも妻を思い出しながら日々を送っていこうと思っている。

3

2008年5月 4日 (日)

ねんきん特別便

Photo_2

ねんきん特別便が届いた。勤務期間に漏れがなくほっとした。

経歴欄を見ながら妻と良く転居、転勤したことを思い出した。

新宿から広島県の瀬戸内海に面した小さな町へ転勤。ここで一回転居。また新宿に転勤。

東京多摩地区の会社に転職しあきる野市(当時は秋多町)へ。その後多摩地区で三回転居。現在の住まいの改築時に仮住まいに移動したこともあった。

転勤、転居の度に妻はよく準備してくれた。

2008年4月 5日 (土)

初めての投稿

2008年3月28日長年連れ添ってくれた妻が息を引き取りました。

初めての投稿として喪主挨拶を(2008/3/31午後1時)

本日はお忙しいところ、雨の中、遠路からも皆様方には妻昭子のためにわざわざご会葬いただきまして誠にありがとうございました。

妻は享年68歳、もっと生きてほしいものでした。誠に残念です。

わがままな私を40数年間の長い間良くサポートしてくれました。感謝しています。

生前、これからは山歩き・ダンス・旅行など多趣味を生かして老後を送りたいと常々申しておりましたが、それもかなわず誠に残念です。

昨年1月から末期癌の闘病生活を送っておりました。その間先生方、二人の娘たちや孫、皆様方の懸命な看護により在宅で安らかに息を引き取ることができました。

これまで昭子は妻として母として本当に良くやってくれました。

これからは残された私たち一同妻昭子を供養しながら日々送って参ります。

どうぞこれからも変わらぬお付き合いの程よろしくお願いいたします。どうも本日はありがとうございました。

Photo_3