漢詩と詩吟

2009年9月13日 (日)

偶成  西郷 南洲

     料亭の二階で酒を飲み朗吟し気概を述べたもの


大声(たいせい)酒を呼んで 高楼に座す
豪気 飲まんと欲す五大州
一寸の丹心 三尺の剣
拳(こぶし)を握って先ず試みん 佞人(ねいじん)の頭


座敷で酒を飲み大きな声で詩を吟じると
意気はいよいよあがって、世界を一呑みにしたような雄心が湧いてくる
我には報国の精神と鉄をも断つ剣がある、やがてそれをお目にかける日もあろう
しかし、その前に先ず口先ばかりたくみで心の正しくない人間どもを我がげんこつで張り飛ばしてやろう


(高楼)高く構えた建物
(豪気)才能があって人に屈しない意気込み
(丹心)まごころ
(佞人(ねいじん))悪人ども


1877年の西南戦争について官軍(政府軍)の医師が書き残した日記に、西郷隆盛の辞世の漢詩ともみられる七言絶句が記されていたことが、12日までに分かった。
「肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 西郷隆盛」という七言絶句が書かれていた。
「肥後や豊後への道はすでに窮まった。故郷に帰り骨をうずめよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。わが半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。あの世で一体どんな顔をして、照国(=島津斉彬)公にお会いすることだろうか」という意味。
「官軍医の自作ではないか」とみる研究者もおり、真偽をめぐり論議を呼びそうだ。
(2009年9月12日スポーツ報知より)

2009年9月 8日 (火)

偶感  西郷 南洲

明治維新の英傑、無欲の人、薩摩藩士、
青年時代直接民政にたずさわって農民生活の実態を知り封建制度の改革を志す。
西南戦争に破れて城山にて没す。


◎作者の人生訓とも受け取れる詩


幾たびか辛酸を歴(へ)て 志始めて堅(かた)し
丈夫玉砕 甎全(せんぜん)を愧(は)ず
我が家(いえ)の遺法 人知るや否や
児孫(じそん)の為に美田を買わず


人間は幾多の艱難辛苦を経験して、始めて志が固くなるものだ
男子は玉となって砕けるのはむしろ本懐であり瓦となって生きながらえる事を恥とすべきだ
我家の後代に伝えるおきてを他人は知っているかどうか
子孫のために財産を買って残しておくことはしないこれが我家の遺法である


(甎全(せんぜん))瓦のようにつまらないものになって生きながらえること 「甎」は しきがわら
(遺法)子孫に残す家訓


西郷隆盛の漢詩は豪快なものが多い。風貌そのままか。若い時の西郷は維新の志士として江戸を出入りしていた。その時、薩摩藩の焼き討ち事件をやったと言われている。志士は皆テロリストに近かった。

2009年9月 2日 (水)

芳野に遊ぶ  頼 杏坪(きょうへい)

(作者)広島出身、春水の弟・山陽の叔父にあたる。
江戸後期の儒者、18才の時春水を頼って大阪に遊学、天明5年芸州侯に仕え郡奉行として20年名声を博した。


◎梅の花の咲く吉野山の遊び人々が南朝の悲しみも忘れ、酔い遊ぶのを嘆き詠んだもの


万人 酔(すい)を買(こ)うて )芳叢(ほうそう)を攪(みだ)す
感慨 誰か 能(よ)く我れと同じき
恨殺(こんさい)す 残紅(ざんこう) 北に向こうを
延元陵上 落花の風


多くの人々は酒に酔い御陵の草木も踏み乱している
私と同じように悲しみ嘆く者がこの中にいるだろうか
特に恨み深いのは、残りの花が風に吹かれ飛んで行くことで
後醍醐天皇の延元陵のあたりには、風が吹いて花が散っていた


(芳叢(ほうそう))花が咲きほこっている林や草むら
(恨殺(こんさい))はなはだしく恨む
(残紅(ざんこう))散り残りの花
(延元陵)後醍醐天皇の塔尾陵(とうのおのみささぎ)


藤井竹外「芳野懐古」と柳川星巌「芳野懐古」さらに河野鉄兜「芳野」を芳野三絶といわれており、吉野山と南朝への哀惜を歌った代表的な七言絶句。
さらに、この頼杏坪の「芳野に遊ぶ」を加え芳野四絶ともいわれる。


春の梅や桜の花が散るとき、木の下でこれらの漢詩を吟ずると詩人の心境に近くなる。いずれもいい詩だ。

2009年8月26日 (水)

赤間ヶ関舟中(しゅうちゅう) 伊形 霊雨

(作者)名は質(すなお)、江戸中期熊本藩の儒者、
霊雨山の下に生まれたので霊雨と号した。
21歳の時、藩校・時習館に入り、李白の再来ではないかと言われたという。天明7年6月43才で没す。


◎故郷に帰るため周防灘から赤間ヶ関に至った時の作


長風(ちょうふう)浪を破って 一帆(いっぱん)還(かえ)る
碧海 遙かに回(めぐ)る 赤間ヶ関
三十六灘(なだ)行いて尽きなんと欲す
天辺(てんぺん)始めて見る 鎮西の山


遠く吹き渡る風に乗り浪をけ立てて帆船は帰る
青海原を遙かに回って赤間ヶ関に至らんとして
数多くの早瀬を乗り切り、それらが尽きようとした時
前方の天の一角に九州の山々が姿を現わした


(赤間ヶ関)現在の下関
(天辺)大空の果て
(長風(ちょうふう))遠く吹き渡る風
(鎮西)九州

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富士見高原のスイレン(Y氏撮影)

2009年8月21日 (金)

四十七士  大塩 中斎

(作者)江戸末期の儒者、平八郎と称す
林述斎について朱子学を修め、後陽明学に転じた。天保8年の飢饉の時、乱を起こし豪商の家を焼き同3月火を放って焚死した。享年45歳。


◎姦吏に対する義憤が義士への同情となり、その義烈を偲んで詠んだもの


臥薪嘗胆 幾(いく)辛酸
一夜(いちや)剣光 雪に映じて寒し
四十七碑 尚 主を護り
凛然冷刹す 奸臣の肝(かん)

赤穂の義士四十七人は幾多の辛苦を重ねたが
ついにその機を得て主君の仇を討った
今、泉岳寺にねむり石碑となっても主君を守るように並んで
誠に後世までも凛然として奸臣共の魂をひやりとさせている

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2005年6月、詩吟の仲間と泉岳寺に。雨の中、義士の墓前には線香の煙が流れていた。

2009年8月16日 (日)

焦心録後に題す  高杉 晋作

(作者)号は東行・名は春風、江戸末期の志士
長州藩士、吉田松陰門下の逸材
尊皇攘夷運動に活躍、第二次長州征伐の時は長州藩の海軍総督として小倉方面にいたが喀血し病床に伏し、維新を目前にして慶応3年4月下関にて没す、
享年27


◎「焦心録」若い藩士を激励するために書いたもの
 その後に書きとめたもの


内憂外患 吾が州に迫る
正に此れ 存亡危急の秋(とき)
唯 邦君の為 家国(かこく)の為
焦心砕骨 又 何ぞ愁えん


徳川幕府は未だ政権を返上せず内憂の折から、外国からは黒船が来て我が国に交易をせまっている
まさに今は危急存亡の時
天皇の為、国の為
国民一致団結して外交に当たるべきである


奇兵隊を組織化したり、軍艦を乗り回したり、逃亡したり縦横無尽に動き回った高杉晋作、維新後の新政府に入っていたらどんな国づくりをしたのだろう。

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富士見高原からの富士山
(Y氏撮影)
 

2009年8月 2日 (日)

壁に題す  釋 月性

(作者)文化14927日(1817116日) - 安政5511日(1858621日))、幕末期の尊皇攘夷派の僧。
周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。吉田松陰とも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなどしたが病没した。
西郷隆盛と一緒に心中した僧月照とは別人。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


男児 志を立てて 郷関を出(い)ず
学若し 成らずんば 死すとも還らず
骨を埋(うず)む 豈(あに)墳墓の地を期せんや
人間 到る処 青山(せいざん)有り


男子が一旦志を立てて故郷を出た以上は
万一、学業が成就しなければ死んでも帰らぬ覚悟でいなければならぬ
なにも祖先と同じ墓地に骨を埋めなければならないという訳のものではない
人間はどこにだって活躍の舞台はあるものだ、また、どこにだって骨を埋める所はあるものだ


(壁に題す)壁に詩を書くこと
(青山(せいざん))骨を埋める土地


この詩を吟ずる時は、高音から
ダンジェェェ ココロザシヲタテテェェェと発生するので難しい。
青春時代の漢詩といえよう。

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富士見高原から朝焼けの甲斐駒ヶ岳(Y氏撮影)

2009年8月 1日 (土)

八幡公  頼山陽

     作者が源義家の人となりとその武風をたたえて詠じた詩


結髪 軍に従うて 弓箭(きゅうせん)雄なり
八州の草木 威風を識(し)る
白旗動かず 兵営静なり
馬を辺城(へんじょう)に立てて 乱鴻(らんこう)を看(み)る


八幡太郎義家は年少の頃から戦場に出て武威を知られていた
関八州の人はもちろん草木もなびくほどの威風である
その義家が兵を率いて奥州の安倍氏を討った時、彼は冷静沈着、兵営は満を持して静まり返っていた
ある時、義家が辺境の城近く馬を進めると前方で雁の乱れ飛ぶのを見て、伏兵を知り、逆に敵を破った


(結髪(けっぱつ))髪をゆう
(弓箭(きゅうせん))弓矢
(威風)威厳のある犯しがたい様子


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富士見高原より富士山(Y氏撮影)

2009年6月23日 (火)

蘇台覧古  李白

     呉王夫差の宮殿のあった姑蘇台(こそだい)を訪れ昔を偲んでの作


舊苑(きゅうえん)の荒台(こうだい) 楊柳新なり
菱歌(りょうか)高唱 春に勝(た)えず
只今 惟(ただ) 西江(せいこう)の月のみ有りて
曾て照らす 呉王宮裏(きゅうり)の人

昔の庭園の台は荒れ果て柳だけが新たに芽を吹き
菱をつむ女たちの清らかな歌声が聞こえて春の思いに耐えきれない
昔を偲ばせるものは何もないが只昔ながらにあるのは西江(せいこう)を照らす月の光だけで
この月はかって呉王宮殿の西施を照らしたことであろう


(蘇台)姑蘇台
(覧古)古跡を尋ね昔を想う
(
舊苑(きゅうえん))昔の庭
(菱歌(りょうか))菱取りの歌


李白は、この詩に関連した懐古詩「越中懐古」も作っている。中国数千年の興亡史を想う。映画「レッドクリフ2」を観たが、登場人物、時代は違うものの呉越の抗争も映画の場面のようだったかも知れない。

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2009年6月17日 (水)

桜井の駅  角光嘯堂(かくみつしょうどう)

(作者)京都壬生の儒家に生まれる。
九大国文科卒、文学博士、廣瀬淡窓の塾舎にて漢学を研究、吟詠は淡窓派・宜園宗家、近代詩吟作多し昭和42年没す。


春色 静寂たり 桜井の駅
風雲 惨憺たり 惜別の時
(短歌)

駒とめて 別れを惜しむ 桜井の 青葉がくれに 啼く杜鵑(ほととぎす)
我れ来たって 古を弔う 楠氏(なんし)の霊
忠烈の遺蹟 追憶深し


6月4日の吟芳流吟扇会吟詠大会でSさんと合吟した構成吟。
構成吟とは吟詠の中に短歌や今様や朗読を入れたもの。


作者が桜井の駅に来て、正成・正行の親子の別れという故事を想い、南朝方を弔ったもの。
吟芳流吟扇会の教本には南朝後醍醐天皇に関した詩や幕末の勤皇側の詩が多い。おいおいブログに投稿します。

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石碑「楠公父子訣別之所」、揮毫は陸軍大将乃木希典

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石碑「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」、明治天皇御製、揮毫は海軍大将東郷平八郎


写真の出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』

2009年6月16日 (火)

望郷  阿倍仲麻呂

6月4日の吟詠大会で独吟した漢詩


最初に短歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を朗詠した。


首(こうべ)を翹(あ)げて 東天を望み
心は馳(は)す 奈良の辺り
三笠 山頂の上
想うに又た 皎月(こうげつ)円(まどか)ならん


楊さんのブログより(写真も)
阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に行く。彼は長安で35年間生活した。
仲麻呂は753年6月、玄宗皇帝の指示で唐王朝の身分のまま遣唐使の藤原清河、副使吉備真備と共に長安を離れ、帰国の途についた。同年10月15日、仲麻呂は楊州で鑑真和尚を表敬訪問し、鑑真を日本に誘った。11月15日、仲麻呂は藤原清河と第一船に、鑑真は第二船に、吉備真備は第三船に、他の人は第四船に乗船して蘇州を出発し渡航は困難を極め、12月6日沖縄を横切る途中で暴風雨に巻き込まれ、大部分の人が遭難した。かろうじて生き残ったのは仲麻呂など十数人で、仲麻呂は暴風に任せ、ベトナムに漂流し、中南島に上陸した。そして、あらゆる困苦辛酸を嘗めながら二年後の天宝十四年六月(755年)に再び長安に戻った。
 この年、安禄山の乱が起こり、その後、彼は玄宗皇帝に従って蜀州へ行き、757年12月、再び玄宗と共に長安に戻った。その後も唐王朝の高級官僚として長安で活躍し、770年、73才で亡くなった

阿倍仲麻呂の記念碑
阿倍仲麻呂の記念碑は興慶宮公園にあります。これは、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月1日に立てられたものです。

大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩と当時の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ彫られています。

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記念碑の東側に彫った仲麻呂の望郷詩

2009年6月 4日 (木)

第15回吟扇会吟詠大会

梅雨間近の一日、恒例の吟扇会吟詠大会が行われた。参加者20人ほど、11時から始まり会長挨拶、会主挨拶、会詩合吟と続き独吟の部に。12時半まで独吟をやり昼食。日本酒を少し飲む。
13時半から合吟の部。


今年の圧巻は80歳近い視覚障害者Nさんの独吟。タイトルはどちらも「将進酒(しょうしんしゅ)」という李白作と李賀作を吟じた。いずれも長い古詩だ。吟詠時間10分程度。すべて暗唱している。すごい努力の賜物といえよう。


コバショウは阿倍仲麻呂(中国名:朝衡)作「望郷」を独吟。最初に短歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を朗詠した。
合吟はSさんと構成吟 角光嘯堂(かくみつしょうどう)作「桜井の駅」を。
詩吟の間に短歌「駒とめて 別れを惜しむ 桜井の 青葉がくれに 啼く杜鵑(ほととぎす)」を朗詠。最後に小学唱歌 落合直文作詩「青葉茂れる桜井の」の一番だけ二人で歌った。
最近、新田次郎の「新田義貞」を読んだので、南朝方の武将の末路の哀れを感じた。
今年の吟詠の自己採点はまあまあか。

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独吟阿倍仲麻呂(中国名:朝衡)作「望郷」

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合吟はSさんと構成吟 角光嘯堂(かくみつしょうどう)作「桜井の駅」を。

2009年6月 3日 (水)

越中懐古   李白

(作者)蜀の人
太白(母が身ごもった時、太白星=金星が懐に入った夢を見たので太白という字(あざな)がついたと言う)、青蓮居士と号した。
絶句においては千古第一人者である。


◎越王の古城・会稽を訪れ往時を想って感慨にふけった時の作。


越王勾践 呉を破って帰る
義士 家に還って 尽(ことご)く錦衣(きんい)す
宮女 花の如く 春殿に満つ
只今 惟(ただ) 
鷓鴣(しゃこ)の飛ぶ有り

臥薪嘗胆20年越王勾践は呉王夫差を破って故山に帰った
主のために尽くした将兵は恩賞の錦をまとって家に帰り
宮女は花のように春の宮殿に満ちた
おごれるものは久しからずたちまち楚の国に亡ぼされ今はただしゃこが淋しく飛んでいるだけだ


鷓鴣(しゃこ))うづらより大型のキジ科の鳥


懐古詩は「稲叢懐古」「芳野懐古」やこの詩のように歴史の栄枯盛衰を短い詩型の中に歌い込んでいる。
李白はこの詩に関係した「蘇台覧古」も作っている。覧古(らんこ)とは古跡を尋ね昔を想うこと。

2009年5月22日 (金)

稲叢懐古(いなむらかいこ)

                太宰 春台(だざい しゅんだい)

(作者)延宝89月14168011月5 - 延享45月3017477月7))、江戸時代中期の儒学者経世家。本名を純、号は春台信濃飯田藩出身。元禄7年(1694)に15歳で、但馬出石藩松平氏に仕え、17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学ぶ。正徳3年、江戸に出て荻生徂徠の門に入る。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

◎稲村ヶ崎から眺望して往時を想い、移り変わった現在に感慨を寄せたもの

砂汀(さてい) 南望すれば煙波浩(こう)たり
聞く説(ならく) 三軍 此れより過ぐと
潮水帰来して 人事改まり
空山超逓(ちょうてい) 夕陽(せきよう)多し

稲村ヶ崎の浜辺から南を望むと青海原は果てしなく広がっている
言い伝えによると昔新田勢はここを通って鎌倉に攻め入ったという
一度退いた潮は元のように岸を浸し人の世は移り変わり
人無き山は遙か遠くに連なって夕日を浴びている

(砂汀(さてい))砂浜
(煙波)遠くの水面がもやがかったように霞んで見えること
(超逓(ちょうてい))遙かへだたる

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2005/5/3ヘルパーと鎌倉に行った。その時の稲村ヶ崎の海。
亡き妻が作ってくれたお握りとタッパーに詰めたおかずを海を見ながら昼食とした。おいしかった

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稲村ヶ崎公園での昼飯。車椅子では稲村ヶ崎散策は無理だった。

2009年5月18日 (月)

桂林荘雑詠諸生に示す(その二)

                                            廣瀬 淡窓

     塾生のホームシックの様子の詩

遙かに思う 白髪 門に依るの情
留学三年  業未だ成らず
一夜 秋風 老樹を揺るがし
孤窓 枕を欹(そばだ)てて 客心驚く

故郷では更に白髪を増した老親が首を長くして自分の帰りを待っているだろう
しかし故郷を出て早3年学業は未だ成就できず
秋風の一夜庭の前の老樹を吹き来れば
いよいよ眠れず枕に頭をもたせかけて郷愁の念にかられている

2009年5月17日 (日)

桂林荘雑詠諸生に示す(その一)   

                廣瀬 淡窓

(作者)名は建、江戸末期の教育・詩人家、大分県の日田に生まれ九州各地に遊学後郷里に塾を開く、最初の塾が桂林荘である。
実に四千人余りの子弟を教育した。一人の人間の成し得た育英事業としておそらく古今稀な例であろう。
弟の廣瀬旭荘も詩人として名高い。

◎塾生の共同生活の親しみを叙して門人に示した作者の愛情あふれる詩である。


道(い)うを休(や)めよ 他郷苦辛(くしん)多しと
同袍(どうほう)友有り 自(おのづか)ら相(あい)親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜 雪の如し
君は川流(せんりう)を汲め 我は薪(たきぎ)を拾わん


云いなさんな、よその土地へ来て苦労が多いなどと音を上げてはいけない
一つの着物を共に着合う友もいて自然に仲良くなるではないか
粗末な柴の戸を開けて外へ出てみれば霜が雪のように降りている

さあ炊事のしたくだ君は川の水を汲んできたまえ僕は薪を拾ってこよう

同袍)「袍」は綿入れの着物、親しい仲間友人
(柴扉
(さいひ))柴で編んだ門の扉


コバショウは昭和32年4月から36年3月まで4年間、財団法人長岡社が運営し武蔵野市に現在もある学生寮で生活した。三階建ての鉄筋建てで当時は約30名(一部屋に2人)近くの男だけの寮だった。現在は個室となり入寮者は10人程度とか。
皆同郷のもので方言丸出し、他の大学の情報交換をしたり、ハイキングに行ったりの共同生活を送った。漢詩の桂林荘の塾生にはおよびもつかないが、それでも若いなりの喜怒哀楽があった。当時の仲間も何人かは鬼籍に入った。

2009年5月16日 (土)

常磐(ときわ)孤(こ)を抱くの図に題す 

       梁川星巌(やながわせいがん)

(作者)名は孟緯、美濃の富豪な農家に生まれる、諸国を吟遊すること20年、江戸神田に吟社を開いて教え門下生千数百人あまり、
京都に移り勤皇の志士と交わり国事を議す、安政5年70才にて没す。

     田氏女玉葆(でんしのむすめ ぎょくほう)の「平治の乱後、常盤が三児(今若、乙若、牛若)をともない大和龍門の地をさしてのがれゆく雪中難儀のさまを描いた図」に題した詩。義朝の遺児頼朝(今若)範頼(乙若)義経(牛若)の三人。

雪は笠檐(りゅうえん)に灑(そそ)いで風袂(たもと)を捲く
呱々(ここ)乳を覓(もと)むるは
若爲(いかん)の情ぞ
多年
鉄拐(てっかい)峰頭の嶮
三軍を叱咤するは是れ此の声

雪は笠のひさしに降りそそぎ寒風は袂をひるがえす
泣いて乳を求めているがそれを聞く常磐はどんな気持であろうだが心配するには及ばない
後に鉄拐山の険しい頂きで
三軍を叱咤したのはほかならぬこの声であった

(笠檐(りゅうえん))笠のひさし
(呱々(ここ))乳飲み子の泣く声
(三軍)一軍は一万三千五百人 三軍は大軍の意

鵯越の義経の故事を歌っている。後年、兄頼朝に追われ日本海沿岸から平泉に逃げる。馬で北上し新潟県村上市で馬を下り、その先の断崖絶壁(笹川流れ)は海路を行ったといわれる。馬を下りた地を馬下(まおろし)と名付けられたといわれ現在も地名として残る。

いつだったか妻と瀬波温泉の厚生年金の保養施設に泊まり笹川流れや馬下(まおろし)近辺、村上市の鮭の会館などを巡ったことを思い出した。

2009年4月29日 (水)

重陽後一日 菅原 道真

(作者)文学天才の神童と言われ11才の時、月夜に梅花を見て詩を作り宮中の人々を驚かした。
右大臣となり智者にして仁者、善政良く天皇を補佐し奉り徳高きも、左大臣藤原時平はこれをそねみ策を弄して天皇に偽言を呈し、ために作者は太宰府に左遷される。

     延喜元年9月10日(重陽の後一日)に作詩する


去年の今夜清涼に待()
秋思の詩篇独り断腸
恩賜の御衣今此(ここ)に在り
捧持して毎日余香を拝す


去年の今夜は清涼殿の菊の宴で
「秋思」という御題を賜り、その中で疎外されてしだいに孤立化してゆくわが身をひそかに断腸の思いとして述べたのであるが、
醍醐天皇はこの詩を称賛され、宴果てて御衣を下賜された。その折の恩賜の御衣は、衣箱の中に少しも変わらないで今もある。
毎日捧げ持っては醍醐天皇を拝し御衣にたきしめられた残り香をかぎ、君恩のかたじけなさに感涙にむせぶのである。


重陽)9月9日 菊の節句
秋思の詩)宮中での詩題


ここ1週間ばかり喉が痛くムコダインを服用している。喉が痛いと詩吟の練習はやる気が起こらない。
菅原道真の詩の中で太宰府時代のものは悲しみと恨みが多く、どうも吟詠しにくい。学問の神様にしては暗い面がある。各地の天満宮は牛の像もあり明るいが……

2009年4月26日 (日)

海南行(かいなんこう) 細川 頼之

(作者)讃岐高松の城主で足利三代に仕えた名執権職で、後の熊本藩主細川候の祖先である。
尊氏・義詮・義満の中でも三代義満をして名将軍と称されるに至っては頼之(よりゆき)の教育の偉大な力があったという。

◎義満長ずるに従い近臣の若侍の言を好み頼之の言をうとんずるに至る。よって一先ずおひまを願い出て国元で静養しようと許しを得て高松へ帰る時の作


人生五十功無きを愧()
花木(かぼく)春過ぎて夏已(すで)に中(なか)ばなり
満室の蒼蠅(そうよう)(はら)えども去り難し
()って
禅榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥()せん


自分はすでに50才になるがさしたる功もなく恥じている
木の花は散り春も過ぎて夏も早半ばである
部屋の中の蠅共(若侍共)は払えども去りがたく
余りうるさいので僧侶となり国に帰って清風をあびて余生を送るとしよう。


(禅榻(ぜんとう))世俗との交渉を絶って禅門清浄な地に身を置くこと

2009年4月22日 (水)

半夜   良寛

(作者)越後の禅僧、新潟県出雲崎の出身、幼い時から賢く流俗のことを好まず長じて弟に家業をつがせ剃髪して良寛と称し大愚と号した。
海内を歴遊すること20余年、帰国し五合庵に住む、天保2年74歳で没す。


首(こうべ)を回(めぐ)らせば五十有余年
人間の是非は一夢の中(うち)
山房五月(ごげつ)黄梅(こうばい)の雨
半夜蕭々(しょうしょう)として虚窓(きょそう)に灑(そそ)ぐ


かえりみれば五十余年の人生であり
人間だからあれこれと気づかって生きてきたが、それも夢の間のことであった
ちょうど5月でこの山堂にもつゆが訪れ
夜半、もの淋しく人気のない窓に雨が降りそそぎ淋しさもひとしおである


(山房)五合庵のこと
(黄梅(こうばい)の雨)梅雨
(半夜)一夜の半分
(蕭々(しょうしょう))もの淋しいさま
(虚窓(きょそう))人気のない窓

4月19日の「すわっ祭」で吟じた詩。良寛の詩は人生を達観したものが多い。老荘思想に影響されたともいわれている。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

2009年4月19日 (日)

すわっ祭

いつも詩吟の学習をする学習館の発表会があった。33回すわっ祭。
去年は参加しなかったが、今年は仲間と一緒に参加した。


コバショウは良寛の「半夜」を、Oさんは構成吟「静御前」、Sさんは民謡入りの「名槍日本号」最後は女性三人の合吟「五木の子守歌」を吟じた。
コバショウは高音が出ず自己評価は低い。他の皆さんはうまく吟じていた。
持ち時間各グループ15分程度のため、何を吟ずるか悩んだ。

私たちの演目が終わったのが昼ころ。詩吟の仲間と応援に来てくださった先生を交えて反省会をかねて昼食を一緒に。
皆が乗れば来年も参加したい。できれば新会員が入ってくれればいいのだが。

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会場の観客に分かりやすいようにと先生が漢詩を書いてくださり会場に張り出した。
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すわっ祭は作品展、発表会などをやっていた。発表会は学習館を利用して練習している各グループが参加。コーラスグループが多い。やっぱり女性パワーが圧倒的。

2009年2月25日 (水)

雪梅 方岳

(作者)南宋の詩人で字は巨山、祁内の出身で紹定年間に進士となった。詩文の名手。


梅有り雪無ければ精神ならず
雪有り詩無ければ 人を俗了(ぞくりょう)
薄暮 詩成って天又雪ふる
梅と併(あわ)せて十分の春と作()


梅があっても雪がなければ霊妙な心になれない
またかりに雪があっても詩がなければ人を凡俗なものにしてしまう
夕暮れにやっと詩が出来て同時に空から雪が降ってきた
これで梅を加えて春は本当に味わい深いものになった

(俗了(ぞくりょう))平凡なものになってしまうこと

この詩を参考に新島譲が漢詩「寒梅」を作ったといわれる。
春の雪の中に白梅・紅梅が開くのは風情があろう。今春は暖冬のせいか梅の花は開くものの天から雪は降らない。

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2009年2月23日 (月)

春を探る 戴益(たいえき)

(作者)宋代の詩人であるという以外伝不詳、この一詩で名が伝えられる。


尽日(じんじつ) 春を尋ねて春を見ず 
杖藜(じょうれい)踏破す 幾重の山 
帰来(きらい)し 試みに梅梢(ばいしょう)を把って看れば 
春は枝頭に在りてすでに十分 


一日中春を尋ねてみたがどこにも見あたらなかったアカザの杖をついて山越え谷を越えて歩きまわった
やむなく家に帰りためしに庭の梅の梢を手にとってみると
思いかけず枝先の蕾がふくらんでいてそこに春があざやかであった

(尽日(じんじつ))一日中
(
杖藜(じょうれい))あかざの杖
(
踏破)歩き尽くす



愛誦吟の一つ
春を待つ心をよくあらわしている。
一説には「尽日」は「終日」であり、「幾重の山」は「幾重の雲」といわれている。
習っている教本どおりとした。詩の大意は変わらないと思う。家の庭の梅は白梅は散り、今は紅梅が満開で、ヒヨドリ・ムクドリが姿を見せてくれる。

2009年2月18日 (水)

獄中の作   橋本 綱紀(こうき)

(作者)越前福井藩の医者に生まれる。
学深く徳高く勤皇の志篤く、西郷・坂本・桂等と交わり、藩主春嶽公の信任篤く、極秘の重要事項で水戸公へ使いした帰途幕使に捕らわれ安政610月7日千住小塚原に於いて斬られる。
通称左内ともいう。享年26


二十六年 夢の如く過ぐ
顧みて平昔(へいせき)を思えば感滋(ますます)多し
天祥の大節 嘗て心折す
土室猶()お吟ず 正気(せいき)の歌



わが26年の生涯を振り返ってみるとまるで夢のように短く過ぎたが
感慨は無量である
気高い節操の人文天祥を自分は敬仰していたが
彼が獄中で詠んだ「正気の歌」を自分も獄中で口ずさむ


(
心折)敬い慕う
(
平昔(へいせき))昔のこと
(
天祥)文天祥、宋の志士、「正気の歌」を作る
(
大節)大いなる節義



橋本綱紀=左内は医師の家に生まれ、医者を目指す。藩主松平春嶽公に認められ公武合体に尽力。
井伊大老暗殺のメモ(ふざけて書いたと言われる)を押収され安政の大獄で死す。

漢詩「獄中の作」は幕末の志士が沢山作っている。

2009年2月15日 (日)

冬夜読書 菅 茶山

(作者)備後の出身、19歳で京都に遊学し頼春水・杏平兄弟等諸師と交わり遊び後、故郷に帰り塾を開いて子弟教育に専念す。頼山陽など多くの門人が出た。80歳で没す。


雪は山堂(さんどう)を擁(よう)して樹影(じゅえい)深(ふか)し
檐鈴(えんれい)動(うご)かず夜沈沈(ちむちん)
閑(かん)に乱帙(らんちつ)を収(おさ)めて疑疑(ぎぎ)を思えば
一穂(いっすい)の青燈(せいとう)万古(ばんこ)の心


雪は深く積もり山中の家を包み木も深々と雪をつけて家を覆っている
風も止んで軒端の鈴も動かず夜は深々と更けて行く静かに取り乱した書物を片づけ書中の理解しがたかったところを考えた
一筋の灯火の下で私の心ははるか昔の人の心と通い合ったのである

(山堂)山の中の家
(
檐鈴(えんれい)軒端の風鈴)
(
沈沈)夜が更けゆくさま
(
一穂(いっすい))燈火の数え方
(
青燈(せいとう)ともし火)
(
万古(ばんこ))はるかな昔


愛誦吟の一つ。1/28の新年会に独吟した。
暖冬の都会では感じられないが、雪国越後長岡の田舎育ちには作者の心境に似たものを感じる。今は積雪は少なくなったが、昭和20年代は深々と積もり続けた。
米百俵で有名な越後長岡藩士小林虎三郎の「清夜吟」にも万古の心が歌われている。
天に万古の月有り
我に万古の心有り
清夜高楼の上
欄に憑っていささか襟を開く
天上万古の月
我が万古の心を照らす

2009年2月 6日 (金)

船由良港に至る  吉村寅太郎

(作者)幕末の志士、土佐の人、文久2年京都伏見の寺田屋で倒幕の密議中捕らわれ藩地護送となったが、間もなく許され再び京に上る。攘夷促進・倒幕のために働いたが、天誅組として高取城攻撃の最中重傷を負い戦死する。
享年27

◎文久2年5月捕らえられて船で高知へ護送される途中、都の空を偲んで詠んだもの


(こうべ)を回(めぐ)らせば 蒼茫(そうぼう)たり浪速城(なにわじょう)
篷窓(ほうそう)又聴く杜鵑(とけん)の声
丹心一片 人知るや否や
家郷を夢みず 帝京を夢む


遙か都の空を望めば暮れ行く空にぼんやりと大坂城が見え
船窓にまたほととぎすの声を聞いた
私の心に宿る真心を人は知っているだろか
こうして囚徒となっても夢に見るのは家郷のことではなく都の情勢なのだ


(
由良港)淡路島の東岸にある港
(
蒼茫(そうぼう))かすんでぼんやりしている様
(
浪速城(なにわじょう))大坂城
(
篷窓(ほうそう))とまを掛けた舟の窓
(
杜鵑(とけん))ほととぎす
(
丹心)まごころ
(
帝京)皇居のある都、京都のこと

吟芳流吟扇会の教本には維新の志士の漢詩が多い。漢詩の内容に勢いがあり吟詠にいいからだろうか。宗匠永村吟芳先生がお好きだったからからであろうか。
おいおい掲載していきます。

2009年1月28日 (水)

吟扇会の新年会

市内のレストランの一室で会の新年会が開かれた。先生を始め参加者は18名。

会費4000円で約3時間、各自の独吟から始まり思い思いのグループで合吟をした。尺八の入会者もあり賑やかな新年会だった。

私の独吟は菅茶山の「冬夜読書」、合吟はYさんと「初夢」を吟じた。

詩吟が一段落した後はビンゴゲームやカラオケで散会となる。

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Yさんと「初夢」を合吟



Sさんの独吟「大漁節」Kif_0089   

2009年1月 2日 (金)

初夢 逸名

     祝賀の席にふさわしい詩、のびのびと吟じる

波静かに 亀遊ぶ 恵方の海
七人乗り合い 蓬莱に棹さす
弁天音曲 神神舞う
一夜春風(しゅんぷう) 夢に入りて来る

(逸名)作者不詳のこと



今夜が初夢、どんな夢を見るかな。

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2009年1月 1日 (木)

元旦に筆を試す 山鹿 素行

(作者)16221685
江戸時代前期の儒者、会津の生まれ、朱子学や軍学を修め仏教・神道・和歌などにもくわしかった。古学を唱えたことから幕府に憎まれ、赤穂藩に預けられ、ここで藩士たちに講義を行い影響を与えた。


紅霞(こうか) 海を出でて 九垓(きゅうがい)に満つ
東帝の恩波 唯 大なる哉
世路 険夷 梅識()るや否や
霜辛(そうしん) 雪苦(せっく) 一枝(いっし)開く


太陽は海を出て日の光は世界に満ちている
太陽の恩恵はまことに大である
世渡りの難しさ楽しさを梅の木は知っているだろうか
ともかく霜に耐え雪に苦しみ太陽の恩恵のもと一枝花を咲かせたのである


(
筆を試す)元旦に詩を作ること
(
紅霞(こうか))真っ赤な太陽
(
東帝)太陽
(
世路)世の中
(
霜辛(そうしん))きびしい霜

穏やかな2009年の元旦を迎えた。六回り目の丑年の年男。
どんな一年になるのか。亡き妻昭子と同行二人で過ごしていこう。

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2008年12月31日 (水)

除夜の作 高適

(作者)盛唐時代河北省の人、玄宗の代に有道科に挙げられる。年50にして始めて詩を学ぶ。唐代詩人中稀に見る栄達者。高古の詩風を以て知られる。

旅館の寒燈 独り眠らず
客心何事ぞ (うたた)凄然(せいぜん)
故郷 今夜 千里を思う
霜鬢(そうびん) 明朝 又一年



旅先で除夜を迎えて眠られず‥‥‥‥‥
旅館で寒々とした灯の下で独り眠られぬ夜を過ごした
が旅人の心はどうしたことかひどく淋しさを感じた
それもそのはず故郷を今夜は千里の遠くに思う我が身なのだから
髪の毛に白さを増したその私も明日の朝には又一つ年を加えることになるのだな

(客心)旅人の気持
(
(うたた))ひどく心を打たれるさま
(
凄然(せいぜん))悲しみ痛む様子



愛誦詩の一つ、年齢からの容貌・心境はまさにこの詩の通り、
「客心」とはいい言葉、今年の3月に旅立った昭子の客心はいかがなりや
明朝からの一年は‥‥‥‥‥

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2008年12月30日 (火)

早(つと)に白帝城を発す    李白

(作者)蜀の人、字は太白(母が身ごもった時太白星=金星が懐に入ったと夢見たので)、号は青蓮居士
律詩の杜甫に対し絶句の李白

◎作者が青年の時、始めて白帝城から長江=揚子江を下り三峡を過ぎての作

(あした)に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日(いちじつ)に還(かえ)
両岸の猿声 啼()いて住()まざるに
軽舟已に過ぐ 万重(ばんちょう)の山


朝焼け雲の白帝城を発し、
千里もへだてた江陵へ向かったが一日でたどりついた
両岸の猿の声はどこまでも続きしきりと啼いてやまぬが
私の乗る小舟は早已に重々たる山間を通過したのである


この詩は青年期の作か晩年の作か色々解説されている。
長江を一気に下っていくさまからすると、早く都(長安)に上りたいという気持が出ている。青雲の志を持っていた時期と解釈したい。

2008年11月27日 (木)

富嶽 乃木 希典

     富士山によせて日本の秀れたことを詠んだもの

崚嶒(りょうそう)たる富嶽千秋(せんしゅう)に聳ゆ
赫灼(かくしゃく)たる朝暉八州を照らす
()くを休()めよ区々たる風物の美
地霊人傑是れ神州

他のどの山よりも高い富士山は長い年月を経て聳え立ち
煌々と輝く朝日は我が国を照らしている
小さな風景の美しさをとやかくいうことはやめて欲しい
土地柄がこの上なく秀れ人物も傑出していることこれが我が国の姿である

(崚嶒りょうそう)高く険しい
(
赫灼かくしゃく)光り輝く、赤々と燃える
(
区々)小さな事
(
朝暉ちょうき)朝日の光

2008年11月26日 (水)

爾霊山(にれいさん) 乃木 希典

     明治37年12月14日朝、白雪に映える爾霊山(にれいさん)を見て詠じたもの

爾霊山は険なれども豈(あに)()じ難(かた)からんや
男子の功名克艱(こっかん)を期す
鉄血山を覆うて山形改まり
万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山

爾霊山はどれ程けわしくともよじ登れないというものではない
男子功名を立てようとするからには艱難に耐え克服しなければならないのは覚悟の上である
わが軍これを攻めて鉄血山を覆い爆薬のため山の形も改まった
今日この山を仰ぎ見てその忠魂を讃えない人はいないのである

(爾霊山(にれいさん))203高地のこと、日露戦争の激戦地、乃木将軍がつけた山の名前
(
鉄血)銃砲弾と味方の流した尊い血

2008年11月25日 (火)

法庫門(ほうこもん)営中の作 乃木 希典

     明治28年法庫門に陣し、その陣中での作

東西南北幾山河
春夏秋冬月又花
征戦歳余人馬老いたり
壮心尚(なお)是れ家を思わず

東西南北各地に転戦し、幾山河をふみ越え戦ったその間春夏秋冬を迎え月や花の季節もあったこうして月日が経ち既に一年有余になり人馬共に老いたが意気益々盛んで故郷のことなど少しも考えていない

2008年11月23日 (日)

金州城外の作 谷口廻瀾

     作者が昭和6年満州事変に師団長として出征し、その昔日露の役に乃木将軍の部下の一士官だった頃を思い出しての作

父は名君に捧じ子は親に捧ず
我来たって慿弔(ひょうちょう)し涙痕(るいこん)新たなり
金州城外秋深き処
(そぞろ)に憶(おも)う斜陽馬を立つるの人を

人の親として将軍は明君に奉じて殉死した。子は上官の命に奉じて戦死した。
この親、この子を思えば新たに涙が落ちるのである
今、金州城外に来れば秋の淋しさも一層身にしみて
そぞろに思い出すは将軍が馬を立て戦場を見入られている姿である

乃木希典の「金州城外」を思い浮かべながら作った詩であろう。

2008年11月21日 (金)

金州城外   乃木 希典

作者:嘉永2年長州藩士乃木希次の長男として生まれる。
西南・日清・日露の戦争に従軍し、特に旅順攻略に大功あり。

山川草木転(うた)た荒涼

十里風腥(なまぐさ)し新戦場

征馬前(すす)まず人語らず

金州城外斜陽に立つ

日露戦争第3軍司令官として203高地攻略の帰途、長男の戦死した新戦場を視察した時の作

山も川も草木も皆荒れ果てて
千里の遠方より吹く風は血腥い感じがするつい今まで戦っていたところ
馬は歩みを止めて進もうとせず、将兵はもくもくと
凄然としたさまに只々感に打たれ金州城外の夕日を受けて立ちつくすばかりである

詩吟を始めて一番最初に習った漢詩。
「坂の上の雲」で司馬遼太郎は作者の評価を低くしていたが、人間としての作者の評価は純なるものがあろう。数年前、乃木神社に行った。石段は車椅子を持ち上げてもらい境内を回った。
この詩の「新戦場」の語は奇異に感じたが、「古戦場」に対比する語とみれば現場の雰囲気を表している。

2008年11月12日 (水)

吟芳流吟扇会の吟行会

今年も吟行会に参加できた。ありがたいことだ。
場所は多摩センターのサンピア多摩、参加吟者20

08_2家から多摩モノレールを利用して1.5時間のところ
落ち葉を踏みしめ秋冷の雰囲気にひたる。
会は11時から始まり昼食をはさんで15時頃まで皆さん日頃の練習の成果を吟じ、懇親を深めた。

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コバショウの独吟は松口月城作「英霊南自()り還る」、南
洋で戦没した霊を思う構成吟で、漢詩、俳句、短歌、今様
からなるもの。
短歌は「靖国の宮にみたまは鎮まるも折々帰れ母の夢路に」、対象は異なるが亡き昭子のことを思い浮かべ選曲した。
初めから高く出たので高音発声に苦しみ、今回は失敗の吟。

Sさんとの合吟は杜甫の「江村(こうそん)
杜甫晩年の作、川のほとりの村の風景、家の中の老妻や子供達の動きそして年老いた杜甫自身は薬に頼るのみ、と日常生活を漢詩にしたもの。
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才台二人の選曲としてはよかったか。
上手く吟じられた。
来年も参加したいものだ。

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2008年10月 9日 (木)

山行 杜牧

作者:京兆の人、晩唐の代表的な詩人。風流才子で杜甫を大杜というなら杜牧は小杜というようだ。

◎秋の山に登って紅葉を賞しての作

遠く寒山に上(のぼ)れば石渓斜めなり
白雲の生ずる処(ところ)人家有り
車を停(とどめ)め座(そぞろ)に愛す楓林(ふうりん)の晩(くれ)
霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり

遥々と寒山に上ると石の多い小道が勾配になって続き
彼方白雲の立ち上るあたりに人家が見える
時々車をとめてなんとなく夕日に映える楓林の景を賞した
色づいた楓の葉は二月の花より赤かった

(寒山)秋冬の物淋しい山

2008年9月20日 (土)

菊花 白楽天

作者:貞元16(800)29才で進士に及第し、各地の長官などを歴任、33才で隠遁生活に入った。仏教への帰依を深めて僧等と親交を結び香山居士と称した。
詩は平易流暢で内外に大流行した。晩年は詩酒を友にした。自適の心境をうたっている。

     寒に耐える菊の花の美しさ、強さを賞して詠んだもの

一夜(いちや)新霜(しんそう)瓦に着きて軽()ろし
芭蕉は新たに折れて敗荷(はいか)は傾く
寒に耐うるは唯 東籬(とうり)の菊のみ有りて
金栗(きんそく)の花は開きて暁更に清し

ある夜ひそかに冷気が忍び寄って初霜が瓦にうっすらとおりた
芭蕉は寒さに耐えられず折れてしまい、破れた蓮の葉も傾いた
寒さに耐えるのは只、東の籬の菊だけだ
金の小粒のような花は暁の光を浴びていよいよ清らかである

詩吟を始めて2年後に習った詩。今から8年位前か。練習が終わる頃、妻昭子が当時3才の孫と車で迎えに来てくれた。家に帰ると「いちやしんそうかわらにつきてかろし」と吟じていたせいか3才の孫も暗記した。今は小学校5年生、暗記した詩は全部忘れたようだ。

音声を入れてみました。よかったら聴いて下さい。

「菊花      白楽天」

「kikka_hakurakuten.mp3」をダウンロード

2008年9月14日 (日)

芳野懐古  柳川星巌(やながわせいがん)

作者:名は孟緯、美濃の富豪な農家に生まれる、諸国を吟遊すること20年、江戸神田に吟社を開いて教えの門下生千数百人あまり、
京都に移り勤皇の志士と交わり国事を議す、安政5年70才にて没す。

南朝の後醍醐天皇か崩御してから約500年後に作られた詩
本場の中国にみられぬ情景、それを漢詩に詠じたわけで自ずから日本的漢詩の世界になる。

今来古往 跡 茫々
石馬 声なく 抔土(ほうど) 荒る
春は桜花に入りて 満山白く
南朝の天子 御魂(ぎょこん)香し

南朝の後醍醐天皇が吉野の行在所で崩御せられて既に500年を経ており、年代すでに久しく茫然として何も望み得ない
陵馬も黙して語らず御陵も荒れ果てている
春ともなれば桜花咲き誇り満山白く
この時ばかりは南朝の天子の御魂も定めて満足であろう

(
抔土(ほうど))陵墓
桜花の華やかさと落花の哀しさ、まさに古来から日本人の心情をふるわせる。

2008年9月 9日 (火)

芳野懐古   藤井竹外(ふじいちくがい

作者:江戸末期の詩人

銃砲をよくし、また酒を好む。頼山陽に学び山陽の死後、柳川星巌に師事。慶応2年60歳にて没す。

作者が晩春に後醍醐天皇ゆかりの吉野に詣で吉野山の如意輪寺を訪ねての作

古陵の松柏天(てんぴょう)に吼ゆ
山寺 春を尋ぬれば 春 寂寥(せきりょう)
眉雪(びせつ)の老僧 時に帚(ほうき)を輟(とど)め
落花 深き処 南朝を説く

古陵を蔽う松や柏の大木は空吹く強い風に揺らいで鳴り渡り
山寺に春を探し求めたが、花も散り実に淋しい
その時、眉毛の白くなった老僧が庭を掃く手をやめて
散り敷く花の積もるところで南朝物語を語ってくれた

(古陵)後醍醐天皇の墓
(
(てんぴょう)大空に吹きすさぶ風
詩吟を10年前に始めて最初の教本の三番目に習った詩。
江戸時代の詩人は南朝を深く思っていた。
この
藤井竹外「芳野懐古」と柳川星巌「芳野懐古」さらに河野鉄兜「芳野」を芳野三絶といわれており、吉野山と南朝への哀惜を歌った代表的な七言絶句。

2008年9月 5日 (金)

春日山懐古    大槻磐渓(おおつきばんけい)

江戸末期の人、明治の漢学者・蘭学者、昌平校に学ぶ、仙台藩儒となる。
歴史学に長じ砲術を学び開港論を主張す、明治1178才で没す。

謙信の故城春日山に至り、英雄を偲んでの作

春日山頭 晩霞(ばんか)に鎖(と)ざさる
驊騮(かりゅう)嘶き罷(や)んで 啼鴉(めいあ)有り
憐れむ君が 独り 能州の月を賦して
平安城外の花を詠ぜざりしを

越後の春日山は夕霞にとざされ
駿馬のなく声もとだえねぐらを争う鴉の鳴く声を聞くばかり
謙信ほどの英雄が能州の月を詩に作っただけで
京に上り平安城外の花を
ずることなく終えたのは
誠に残念なことである

驊騮(かりゅう)----周の牧王のすぐれた馬の名
九月十三夜陣中の作」の謙信を深く思って作ったもの。
詩吟を始めて2年目の200010月の吟行会でこれを吟じた。
春日山にはまだ行っていない。

2008年8月31日 (日)

九月十三夜陣中の作   上杉謙信

戦国時代の武将、越後守護代長尾為景の次子、景虎といい19才にて上杉氏の養子となり41才以後謙信と号す、天正6年49才にて病没。

天正2年上杉謙信が七尾城を包囲した時の作

霜は軍営に満ちて 秋気清し
数行の過雁(かがん) 月 三更(さんこう)
越山併わせ得たり 能州の景
遮莫(さもあらばあれ)家郷 遠征を憶(おも)う

霜は陣営に満ちて秋気清く
数列の雁が飛び去り真夜中の月はいよいよ冴え渡る
戦勝の陣中に祝宴を張れば時あたかも十三夜の名月中天に冴え渡り
越後の山々に能登の景色まで併せ賞する事ができて武人の本懐である
さればままよ家郷の者達がこのような遠征にある身
を気づかうともそれは仕方がない事である

越後生まれのコバショウは謙信と聞くと親近感がある。
2003
6月の第9回吟詠発表会で「九月十三夜陣中の作」を吟じた。
その時、謙信作の短歌
「ものゝふの鎧の袖をかたしきて 枕にちかき初雁(はつかり)のこゑ」を一緒に朗詠した。

2008年8月23日 (土)

不識庵(ふしきあん)機山(きざん)を撃つ図に題す   頼山陽

江戸後期の人、史家、広島藩士尾藤二洲の門に入り

昌平黌( しょうへいこう)に学ぶ。尊皇の志厚く、

豪放磊落・孝心厚く日本外史など著述詩作にも専念

した。59歳で没す。

謙信と信玄が川中島に戦う図に題し、謙信の側から

これを詠じたもの。

鞭声 粛粛 夜 河を過(わた)る

暁に見る 千兵の大牙を擁するを

遺恨なり 十年 一剣を磨き

流星光底 長蛇を逸す

夜、鞭の音も静かに謙信は川を渡ったが

暁の霧の中に大軍が大牙をかかげて陣するのを見た

謙信は十年余の恨みをこの時に晴らそうと決め、自

ら本営に切り込み

信玄に一閃切りつけたが惜しくも取り逃がしてしま

った

池波正太郎に小説「蝶の戦記」がある。前半は川中

島の合戦に忍者お蝶が絡む筋となっている。

池波正太郎他の短編集「決戦川中島」もあるようだ

がまだ読んでいない。

何かの会合で一曲といわれるとこの漢詩を吟ずる。

2008年7月17日 (木)

偶成     朱熹

南宋の哲学者。宋代の朱子学の元祖。

我が国朱子学者に大きな影響を与えた。

去りゆく少年時代は速い。学問達成の難しさを述べたもの。

詩吟で好きな詩の一つ。

少年老い易く学成り難し

一寸の光陰軽んずべ可らず

未だ覚めず池塘春草の夢

階前の梧葉已に秋声

少年時代はまたたく間に過ぎ学問は成就しがたい

故に一時も無駄にしてはならない

それは丁度池のほとりの春草がもえ出た夢を見てその夢が覚めやらぬうちに

もう門前の桐の葉には秋風が吹き出すといったように早いものである

2008年7月13日 (日)

再び楓橋に到る  張継

張継の有名な漢詩は「楓橋夜泊」で、この詩はあまり知られていない。

自然は変わらず、人間は老いて行き思い出の中に生きて行くか。

白髪重ねて来る 一夢の中(うち)

青山改まらず 舊時の容(かたち)

烏啼き 月落つ 寒山寺

枕を 欹(そばだ)てて 猶聞く 半夜の鐘

昔、夜泊の詩を作ったが、以来歳月は夢の間に過ぎ

白髪の老人となって再びこの地を訪れれば、あたりの緑の山は昔ながらの形をとどめ以前と同じく

夜泊をすれば烏が啼き、月は寒山寺の彼方に沈み

頭をもたげて、今つき出す夜半の鐘を聞いたのである

2008年7月12日 (土)

楓橋夜泊   張継

中唐の人、代宗の大暦年間中央に召され、検校祠郎中に至り博覧で政治の本体もわきまえ大変評判が良かった。

有名な旅愁の作、秋の夜の極めつけの名作。

掛け軸に書かれる名詩。

月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ

江風 漁火 愁眠に対す

姑蘇(こそ) 城外の 寒山寺

夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る

月は沈み夜空に烏が啼いて霜の降りる気配が空に満ち渡り

川岸の紅葉した楓や漁火が旅愁をさそい、眠られずにいる目前に浮かんでくる

何時頃かと思っていると姑蘇城外の寒山寺から

夜半につきならす鐘の音が私の乗る旅の船まで聞こえてきた

2008年6月 7日 (土)

第14回吟詠発表会

6月5日に吟芳流吟扇会の今年の発表会が行われた。

会は開会の辞、会長挨拶、免状授与、会主挨拶、吟扇会会詩の合吟といつも通り進行し独吟から始まる。

先生を含め23名が11時から昼食をはさんで14時半まで独吟、合吟に芸を披露した。

コバショウの独吟は大橋訥庵作「獄中の作」に野村望東尼の短歌

「うつ人も うたるる人も こころせよ おなじ みくにの みたみならずや」を朗詠。

合吟はSさんと二人で源八岳作「異国の丘」を連吟し、吟詠後、みなさんと歌謡曲「異国の丘」を合唱する。

今年のコバショウの出来はまあまあか。

今年のメンバーは新人1人、初段2人、2段2人、3段6人、4段6人、5段1人、奥伝4人だったが来年はどんなにみなさんは腕を上げられるか楽しみ。

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2008年4月 6日 (日)

詩吟とのかかわり

退職後、車椅子の身で何か趣味はと市の広報を眺めていたら、詩吟の会が新人を募集。

1999(平成11)2月見学に行く。皆さん椅子に座って練習。車椅子でもできそうで早速入会する。その後、何とか継続してきた。四段の免状もいただいた。

吟芳流吟扇会

会は吟芳流吟扇会で宗匠は永村吟芳先生、私は柳本吟扇先生が1995年に始められた吟芳流吟扇会に学んでいる。今年2008(平成20)13年の歴史を持つ。

詩吟のメリット

高校時代の漢文で中国の漢詩に興味を触発されたが、その後なかなか続かなかった。

退職後、昔を思い詩吟を始めたがメリットが多い。

1.      発声は腹式呼吸のため健康にいい。

2.      曲を何回か吟ずることで右脳を鍛えている。

3.      中国の漢詩、日本の漢詩を吟ずるので中国の歴史や日本の歴史を学べる。特に唐時代、日本の幕末・明治維新期の偉人に付き合える。

これから私の好きな漢詩を読み下しで書き込んでいきます。